【勇敢であることとは】人生は”選択”ではなく『”決断”の連続』

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今回の記事ではぶっちゃけた話、あまり文章構成を気にせずべらべらと気ままにしゃべるような感覚で、僕がふと感じた人生における過ごし方についてお話しします。

あまりにもフリートークだと「何の話だよ」となってしまうので主軸を申し上げますと、僕が【人生は選択の連続ではなく、決断の連続である】ということです。

僕と一緒に団らんしているような感覚で読んでいただけると幸いです!

情報過多だからこそ、捨てるのが難しい時代

親父が僕に昔手紙で記してくれたように、確かに“人生は選択の連続”であるとは思います。
「今日の飯は何にしようか」「どの仕事に就こうか」そんな感じで人生のいたるところで選択を迫られます。

ただなぜ僕が選択という言葉ではなく、人生は決断の連続であるかというのは、決断という字のごとく『断つことを決めなければいけない』からです。

根本的に人間は好奇心が旺盛な本能があると思います。
だからこそインターネットが普及している今の時代で、色んな情報が飛び交い色んな興味をそそられる中で、限られた時間や環境の中からどれを最優先に実行するかということは、優柔不断でない僕ですら悩まされる大きな人生の肝です。

その中で自分がやりたいことや興味のあることに何となくの優劣や順序を決め、選択肢の中から一つ決断することはやはり悔いが残ることも否めませんし、その上捨てた選択肢の中から犠牲になる部分もあります。

この決断というテーマに関連して、度々このブログでも紹介している僕の大好きな小説シリーズ『マカン・マラン』の中からあるフレーズを抜粋します:

何かを選び取っていくためには、何かを失う覚悟をしなければいけない人生の不自由さに、胸が震える。
(主人公の)シャール自身、一つのことを得るたびに、多くのものを失ってきた

ときにはそれが、周囲を傷つけることにもつながる。

悔みながら、苦しみながら、それでも自分の道をいこうとし、何かを得るたびに、何かを失いながら、明確な答えのない毎日を懸命に生きている我々は、それだけで勇敢だ。

古内一絵氏・著書『さよならの夜食カフェ:マカン・マラン おしまい』

もちろんこれは情報が過多になっているだけではなく、グローバル化などに伴う価値観や出会いが増えることから、やはりどうしても“選びきれない”選択肢に対しての罪悪感や後悔があるのです。

だからこそ僕は人生におけるその選択を、ただ選んでいるのではなく、捨てなければいけない選択肢に対する重み、そして決断による犠牲や悲しみも考慮したうえで、【人生は決断の連続】なのではないかと感じるのです。

結局悩みは『決断から生まれるもの』

だからこそ決断したうえで、その決断そのものが“間違い”であったり、断った選択肢に対して感じる妬み・後悔・羨ましさを感じたりするからこそ、人生には悩みが尽きないのかなと感じてしまいます。

人生は決断の連続であるのなら、決断に伴う悩みがなくならないのも当然です。

どれだけ自分を信じていても、どれだけ自分の価値に意義を感じても、やはり人間は、少なくとも僕は、決断したことに対し迷い変化に戸惑いを感じてしまうことがあります。

それは自分に浸っているとも言えるし、考え過ぎな部分であるのは事実で、だからこそ僕はマインドフルネスが普及し始めている『本質』に重きを置く時代に突入しているのではないかと実感しています。

断つことは、選ぶことより難しく肝心であることがわかります。

神様は『知らんがな、の境界線』

極端な話、僕はなぜ人々が神様を信じているのかということを考えたときに、

「お前の悩み続けていることの答え?
いやそんなんお前らには知らんがな、だって俺しか知らんもん。
お前神様ちゃうやん、俺お前以外にもどれだけいろんな人見守っていて、みんながそれぞれ幸せで力強い人生に導けるか考えて監視しているか知らんやろ?
もうお前はなんも考えんと、どうせ人生生きているんやったら考えられる範囲だけで楽しめや」

の境界線のために存在し、僕らの人生を助けてくれているのではないかと思います(なんで関西弁…笑。でもそれぐらい気軽でいいんだということを表現したかったのです)

自分の頭で考え、自分の足で人生を歩むことは重要ですが、神様ではない僕たちにとってやはり思考の限界があり、考えすぎることはかえって負担になることがあります。
事実、悟りを開くための宗教・仏教も「考えすぎるのは良くない」と唱えています

まとめ:どこまでが本質であるかを知る

シンプルで奥深いポートフォリオ

「結局何が言いたいんだ!」という声が読者の皆さんから聞こえそうなので、僕の感じ方をまとめます(笑)。

これまでの記事でも述べ続けてきたように、人生には限りがあり、その中で何を自分に取り入れていくかということを考えて実行することがアイデンティティにつながり、その限りの中で“自分なりの悟り”要素で『人生ポートフォリオ』を構成することこそが【本質】です。

シンプルで、奥深い
―これが自分のアイデンティティを構成するために心がけている僕の哲学の一つです。

だからこそ何かの選択肢を断ち、その中でも自分の信じ“決断”した選択肢に覚悟と責任を重んじることで、『人生の選択クイズに意義を感じられる』ようになると思います。

決断を重んじることで得られるポジティビティー

ここ最近のエピソードでいうと、僕自身友人たちとサーフィンをし帰宅したときに、思わず「疲れた~」という言葉をこぼしてしまいました。

この疲れた、という言葉自体にはそれほど意味がなく、単に4時間サーフィンをしたがゆえに不意に言ってしまった言葉ですが、家族からすればそんなこと知ったこっちゃない事実です。
ただただ、「疲れた」というネガティブワードを家庭に放り投げただけの無責任な言動でした。

【決断】という肝を意識するからこそ、この小さな人生の一面においても<自分の信じ決断し抜いた選択肢>に覚悟と責任だけでなく、ギバーとしての価値と“なりたいカッコいい理想像”のアイデンティティの形成により着目できます。

〈本当に俺は、“充実しすぎて体が喜んでいる~”とか“良い波すぎて体がいじめられちゃったよ~(No Pain, No Gain的な?笑)”というワードチョイスを断ってまで、“疲れた”を言うことに重みを置けるのか?〉ということを深く考えさせられます。

そういう小さいことからでも、人間としてのイメージや印象、ましてやアイデンティティができていくんだな~とつくづく感じました。

だからこそなりふり構わず、ネガティブワードを含む言葉たちを“選択”していくのには、本当に断たなければいけない不要な要素への重大さを感じていないように感じてしまうのです。

思考し続けるのはしんどいし、決断時の後ろめたい感情はつきものですが、そんな時は神様の在り方と「しゃーないさ」精神の力を借りながら、最適の断ち方をしてあるべき要素だけで完成された本質に向けて、意識を向けていきたいと改めて、ふと、感じさせられました。

断つことで本質が見えてきて、自分にとって本当に大事なものが見えてくる―そういう禅の考え方を組み込んだ本質。

記事を読んでくださり、にふぇーでーびる!
またやーさい!

大空にも東も西もないように、あなたの心も内側と外側で境界を設けてはいけません。

―“さとり人”代表・お釈迦様より

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