第二部:【これさえやれば人生終わり!?】あなたのそばに潜んでいるマウンティング

人間関係
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ハイサイ、さとり世代の仲間たち!
ハイサイ、さとり世代を応援してくださっている皆さん!

前回に引き続き、今回の記事では僕が日常的に避けている“マウンティング”についてお話させてもらいます。

前回の記事では、【マウントばかり取ってその場しのぎになれば人生終わり論】という持論がいかにして誕生したか、そしてマウントが不要な理由について解説させてもらいました▼

第一部:【これさえやれば人生終わり!?】僕が人生で絶対にしないこと、それは…
ハイサイ、さとり世代の仲間たち!ハイサイ、さとり世代を応援してくださっている皆さん!突然ですが、皆さんはこの歌詞をご存知でしょうか?Well you win, it’s your show now…So what’s it...

ということで今日はその持論を深堀する為に、身近に感じたエピソードについてお話させてもらい、より詳しく普遍的に人間はマウンティングを取ってしまっているかについてお話します。

あるブログで読んだことなのですが、「人類そのものは生き抜くために本能的にマウンティングは必要」と記されてあり、歴史的な観点から考慮し僕自身それも一理あると感じます。
事実、僕はマウントを取る人たちを非難する為にこの記事を書いている訳ではありません。

ただ僕が伝えたいのは、マウントを取られて肩身が狭くなったり、あまり好きじゃない物差しで測られることによってストレスを感じてしまったりしている方々に、僕の考えを知ってもらうことで少しでも気持ちが楽になればな~と感じて投稿したものです。
ぜひご覧ください。

【職種マウンティング】『半沢直樹』で読み解く“間違った”物差し

大手で働いている男と遊んでいる私、凄いでしょ?

たまたま視聴していたバラエティー番組で、ある女性芸人の方が

「女芸人全員が男芸人好きみたいな風潮というかノリができていて、番組の企画としてその男芸人に告白しないといけないのが凄く嫌。(中略)この流れのせいで、しょせん女芸人なんて…みたいな雰囲気出されるのが嫌なんだけど、私だって大手銀行員や商社マンと遊んでいるんですよね~。」

と発言していました。

なんとなく言いたいことも分かるし、彼女は賢そうな方だったので世間的な物差しで視聴者に理解してもらえるようなコメントをしたと思うのですが、ずっと登場人物を職種で(まるで職種がその人のアイデンティティそのものかのように!)呼び、その上でランク付けしている感じに寂しさを覚えました

これが、これが日本か―。

僕がなぜ職種をアイデンティティのように肩書としてレッテルを張るのに違和感を覚えるかというと、その<前文>を無視している感じがするからです。
銀行員は銀行員でも、全然違いますよね…。

「会社を救った」銀行員 vs. 「汚職だらけのイエスマン」銀行員

今年第2弾が放送され、多くの反響を呼んだドラマ『半沢直樹』では、僕が強調したいその“前文”が良く分かります。

例えば、主人公・半沢直樹はただの銀行員ではありません。

<子供の頃に感じた銀行への疑問と、入社してから確信に変わったその銀行の不正と悪徳を、自らの行動を通じて正義を貫き会社全体に伝達させ、社会に貢献できるような金融システムを建て直すために励んでいる>銀行員です。

つまり、銀行員の前にある文が彼のアイデンティティでありコア・バリューなのです。

一方、法人部部長の灰谷英介というキャラクターは、

<不正に手を染め汚いお金にしか目がなく、自分の責任を放置し、挙句の果てには他人を自殺にまで追い込んだ、悪い上司の言いなりになる不善なイエスマンの>銀行員です。

銀行員は銀行員でも人格としては全く別です。

一方、子会社で下に見られていた東京セントラル証券の会社員たちも、賀来賢人さん演じる森山雅弘を含め、正義感に溢れ金融会社としての使命を全うしたエネルギッシュな人達だらけで、人格としては灰谷よりも称賛されるべき点が数多くありました。

つまり、職種だけでその人自身をジャッジするという事、また自分の職種と他人の職種を比較して「自分の方があいつよりもレベルが高い」(そもそもその格付けがおかしいのですが)と思い込む事、これこそがマウンティングなのです。

ましてやそのマウンティングやしょうもない物差しを押し付けてしまうせいで、世間体を気にしてしまいやりたかった仕事に一歩踏み出せられない人たちも少なからずいるはずです…。
僕の大学3年生の時期で言うと、飲み会では“就活マウンティング会”に多々遭遇することがあり、とても憂鬱な気持ちになります…。

【あの子も頑張っているから】モチベーション≠目標

さて、マウンティングはどこから始まるのか。
その基準を、僕が体験したエピソードを交えながら解説します。

僕は春シーズンに再開が予定されている大学のサッカーシーズンに向けて、日々身体づくりに励んでいます。

そしてある日、友達の母親がたまたまランニングしている僕の姿を見たらしく、その友達に「K君も走って鍛えているんだから、あなたも走りに行くべきよ」と言ったそうです。
励んでいる僕をモチベーションにするのは構いませんが、目標が僕自身になってしまうと、残念ながらそれはある種マウンティングになってしまいます。

※余談ですが、僕のお袋がよく口にする自論がありまして、「べき」という言葉を普通に使って物事を他人に押し付けてはいけないとのことで、僕もそれすごく気に入っています。
なのでこの場合、この母親は僕の友達に「べき」を押し付けないほうが好ましかったのです。

これはどういう事かというと、ルールや枠組みが無くエンドレスで価値がない目標を設定しているからです。

僕には「大学サッカーチームでスタミナのある不動のサイドバックになる」という明確である程度枠組みのある目標で精進しています。

その一方で、もしその友達が「僕」という目標を設定してしまった場合、仮に僕がサッカーを辞め運動しなくなった、怪我で動けなくなった、スタミナでなく筋力で勝負する為に走るのを辞めて筋トレにシフトチェンジしたという出来事が起こると、目標そのものが消え物事に取り組んでいる意義を失いかねません

彼も彼なりに目標があり、その上で目標や立場が類似している僕を自分の心の中で“モチベーション”として設定し、負けん気で精進するのであればそれは素晴らしい事だと思います。

しかし境遇も目的も違う相手に対し、一見取り組んでいることが同じでもそこで張り合おうとすると、各々ビジョン自体が違うわけですからそれはもれなくマウンティングとしてカウントされます。
そのマウンティングのプロセスこそが、エンドレスでその場しのぎの無意味な時間になってしまいます。

第三部の予告:「マウンティングを避ける方法とは?」

以上が僕らの周りに存在する、身近なマウンティングの例になります。
皆さんも少なくとも一回は似たような経験を味わったことがあるのではないかと思います。

もしそういう場や議題が苦手だと感じる方は、まずどこからがマウンティングかを自分なりに理解し、上手く避けられる方法を開拓するとより気持ちが軽くなるかと思います。

ということで次回の記事はまとめとして、マウンティングかどうかを判断する基準マウント合戦の対策、そしてぼくがこのブログを始めるきっかけともなったマウンティングに対するある想いについてお話させてもらいます。

記事を読んでくださり、にふぇーでーびる!
またやーさい!

大空にも東も西もないように、あなたの心も内側と外側で境界を設けてはいけません。

―“さとり人”代表・お釈迦様より

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