第一部:【これさえやれば人生終わり!?】僕が人生で絶対にしないこと、それは…

人間関係
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突然ですが、皆さんはこの歌詞をご存知でしょうか?

Well you win, it’s your show now…So what’s it gonna be?
和訳:はいはいあなたの勝ち、もうあなたが主役ね…それでどうなるっていうの?

ジャック・ジョンソン氏『Good People』

この歌僕大大大好きなんですが、Jack Johnson(ジャック・ジョンソン)さんのGood People(「グッド・ピープル」)という曲から抜粋した歌詞の一部です。

この歌は「どのテレビチャンネルをつけてもどこにもいない…良い人たちはどこへいったの?」といった感じで、現代社会において道徳心や愛情そのものが薄れているのでは?と訴えています。
中でも僕が好きなのが、この歌いだしの歌詞。

今回の記事はこの歌詞にまつわる、僕の自論をご紹介したいと思います。
それが

【マウントばかり取っていたら人生終わり論】

というものです。
勿論、これまで同様哲学や思想は人それぞれなので強要や勧誘は一切するつもりがありません。

ただ僕の自論を少しお話しすることで、対人関係や対話でお悩みがある方の手助けになれたらなと思っております。
僕の大切にしている“自己哲学”のひとつなので三部作にわたってじっくりお話させてもらいます。

今回の記事は<第一部>として、この哲学を持ち始めたきっかけマウンティングがなぜいけないかについてご紹介します。

座右の銘(?):『マウントで人生終わる』

座右の銘、というよりかは僕が勝手に思い込んでいることです。

マウントを取る人、周りにいますか?

僕はなるべくそういう人を避け、マウント合戦のような会話には決して参加しません

きっかけ:退屈だった飲み会

きっかけは1年ほど前にあった飲み会でした。

友達に誘われて行ってみるとそこには“同世代の交流会”と称して色んな人がいたのですが、もう人をジャッジしまくるいわばマウント合戦でした。

聞くことは学歴や資格ばかりで、履歴書を読み上げる様な訳の分からないカオスな状況でした。

僕の中身を知ってくれようともせず米国に進学しているからだけでチヤホヤされ、有名な大学に行っているから偉い、大企業に就職しようとしているから凄い…もう苦痛で、退屈でしょうがなかったのを今でも覚えています。

『肩書き』のその場しのぎ

マウントを取る、というのは僕の中で『見栄を張る』と一緒なのかもしれません。

毎回その場しのぎで自分の背丈を測ってほしそうにし、誰も測ろうとしなければ他の人の背丈を洗い出して自分の方が勝っていると証明する。

〈こんなのは“勝負”でも何でもない〉と強く思ったのを今でも覚えていて、絶対にそう言う場には参加しないと誓いました。
そして僕自身も無意識にマウントを取らないように注意して言動を慎もうと、“反面教師的に”肝に銘じました。

勿論、資格や学歴がある種何かの合否基準を定めるのに分かりやすいという側面があるのも理解できます。
ですが、カジュアルな場で、ましてや人との“交流”を目的とした場で、そんな物差しの使いようがありません。
交流してその人をもっと知りたい時に、あるいはその人に自分の事を知ってほしい時に、小さい物差しを使ってマウンティングに走るのは少しナンセンスなのではないかなと思います。


※余談なんですが、僕はシンプルに肩書きだけで人を測る事柄自体があまり好きじゃないのかもしれません。
テレビでよく観るんですが、例えば過去に放送していた情熱大陸で〈一流の場所で修行しなかったからオーラがない〉とある飲食店がお客様から酷評をもらったというお話をしていました。
でも僕からすればそのお客さんに「お前飯食いにきたんだろ?というか修行場伝えるまで何も知らなかったお前に何が分かんねん」と言い返したいぐらい沸々とした気持ちを抱いたのを覚えています(笑)。
ああ、だから多分「肩書きや過去の栄光を捨てて店内に入りなさい」スタンスの飲食店が描かれた、小説『マカン・マラン』やドラマ『深夜食堂』が【人と人が真正面から向き合っている】感じがして大好きなんだと思います…(笑)。

マウントが不要な2つの理由

さて、なぜマウンティングがいけないのかという事をサラッと説明させていただきます。
結論から申し上げますと、2つあります:

  1. 基準もキリもないから
  2. 目的を見失っているから

理由①:基準もキリもない

マウンティングは対人関係の時にしか成り立ちません
何が言いたいかといいますと、<凄い>と感じてほしい時に誰か自分を“上げてくれるような下の人間”(こんなワード使いたくもないのですが…)が必要になります。

つまり、マウンティングを通じて自分を評価してもらう為には誰かと比べなければいけなくなり、自分単体で評価してもらうことは比較対象がいないので不可能なのです。
誰かがいないと自分が輝けない、ここにそもそもの弱みがあります。

引用元:https://select.mamastar.jp/330083

その上、その比較基準があまりにも曖昧です。

A大学 vs B大学、知識量・うんちくなどマウンティングが行われる場でよく耳にすることですが、そもそもスゴイを決める基準がどこにあるのか良く分かりません。

「かの有名なA大学にいる」人を凄いと思うのならば、大学に入学(合格)するまでの耐久性や努力に対し凄いと思っているのか、あるいは大学に行ける余裕のある家族の経済的地位に凄いと思っているのか、僕はこの辺がよく分かりません。
仮に偏差値の高い大学にいる“だけ”だとしても、現在の学業を怠っているのならば僕はどうしてもその人の今の姿がスゴイとは思えません。

その上、マウンティングで勝負して生きたいのならば、場によって“スゴイの基準”も“比較対象”も勿論変わっていくので、“その場しのぎのしんどさ”に加え結局のところ凄さの曖昧さがどうしても生じてしまいます。

上には上がいるので(この物差しは使い物にならないので、上も下もないとは思いますが!)、終わりの見えないことになってしまいます。
一生凄さの基準も見いだせないまま、上も下も分からなくなり血迷ってしまうのが大きな注意点となります。

理由②:目的を見失っている

上下関係の話に少し触れましたが、マウンティングで競ってしまうと目的が分からなくなる場合があります。

というのも、例えば“お金持ちになりたい”という願望はお金の根本をまず理解する必要があり、<お金=自分が価値のあると感じた物と(信用の下)交換できる引換券>と知る必要があります。

そうでないと、ただただキャッシュを増やすだけで隣のお金持ちとマウンティングで競ってしまうと、お金を持つ目的(人生で何を成し遂げたいのか、その上でどうお金が必要なのか…そもそも人生の価値観を持っているのか)を見失ってしまいその願望すらも道しるべの無い終わりなき旅になってしまうのです。

第二部の予告:「もしかしたら気付かぬうちにマウント取ってませんか?」

以上が第一部になります。

岸見一郎氏と古賀史健氏・著書『嫌われる勇気』でおなじみ【自分の課題≠他者の課題】論において、自分の思想をたとえ家族だとしても押し付けてしまうのはナンセンスであり無意味です。

マウンティングは強要からスタートしてしまう、エンドレスな“無意味”旅であるのです…。
実は気付かないうちにマウンティングって始まったりしてしまっています。

次回の記事では第二部として、主に僕のエピソードトークや大好きなドラマで観察したことを軸に、僕たちの周りに実在するマウンティングの場についてお話させてもらいます。

じっくりご説明させていただくので、是非後編もお読みください!

記事を読んでくださり、にふぇーでーびる!
またやーさい!

大空にも東も西もないように、あなたの心も内側と外側で境界を設けてはいけません。

―“さとり人”代表・お釈迦様より

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